突き動かされるように、その男を追いかけた。


鬱陶しい雨も飛び跳ねる泥水も、気付く余裕すらなかった。
意識はただただ男を追うこと、それだけでいっぱいで。
倒けつ転びつ男は逃げる。お高そうなスーツも雨でぐしゃぐしゃだ。男がさっきまでいた職場は既に血と瓦礫の山。死にたくない一心で逃げる男を青年は追った。

世辞にも速いとは言えない逃げ足。普段なら容易く追いつけそうなものなのに。
いや、そもそもターゲットを走って追うなんてした事すらないのに。
仕事に対する熱意なんてものは無縁で、与えられる仕事も場所だけ指定して皆殺せと適当なものばかり。蟻の巣を潰すような感覚で、熱意などなくとも容易くなんとかなっていた。今までは。
今だって特別難しい状況じゃない。落ちつけばなんとかなる状況。
だけど落ちつけなかった。
こんな事は初めてだった。ざーっと煩く鳴る耳鳴り。蟻程度にしか思ってなかった他者の中、その男は初めて、強烈に青年の心を揺さぶった。

その鮮やかな水色の髪が。
色の薄い橙の瞳が。

自分の同族 且つ決定的に違う色彩。"色違い"の、フライゴン。


入り組んだ路地を逃げに逃げて、ついには行き止まりにきてしまった。
慌てて男が振り返れば既に青年が来ている。へたりこみ、壁に後ずさってがたがた震える事しかできなかった。
「ひっ…やめろ、やめろ寄るな、寄るな…ッ!」
青年はそんな男を少し距離を取ったまま、じっと見つめていた。走って荒くなった呼吸を続けながら。ひたすらひたすら男を見定める。自分に湧きあがるこの気持ちを見定めるかのように。
けれど男の次の言葉で、青年は目を瞠る事になる。
「ッそ、そうだ俺を殺さず売ればいい!そうすれば金になるだろう、殺すよりずっといいはずだ!!」
…荒かった呼吸が止まった。耳鳴りが酷くなる。構わず男はまくしたてた。
「お前、お前一体いくらで雇われたんだ?俺を売ってみろ、どんなに安く売ったって数千万は下らないぞ!お前だって聞きかじった事くらいあるだろう、俺のこの色は希少なんだ。俺にはそのぐらいの価値があるんだ!!」
だから頼むどうか命だけは、とは、言い終えられなかった。耳鳴りが酷くなる。そこにあるのはひび割れた壁と弾け散った赤い塊、それらにめりこんだ青年の靴だけだった。
…蟻は蟻だった。少し力を込めれば容易く潰れる、これまで潰した蟻と何一つ変わらない感触で潰れた。その程度の生き物なのに。
その程度の生き物なのに。

『俺にはそのぐらいの価値があるんだ!!』

耳鳴りが、酷くなる。
知ってる。知ってる。本当は思い知ってる。雑魚だ蟻だと見下しながらも、自分は本当は、本当は、それ以下の。土砂降りの雨の中、獣のような咆哮が上がった。


「…手間が省けたよと、感謝したいのは山々なんだけどね。」
吠えた余韻が消えかけた頃、どこからか声がした。声のした方を見上げると、塀の上に誰かがいる。
一人…いや、二人だ。派手なピンク頭の男に長い三つ編みの男。どちらもこれっぽっちも知らない奴だ。
「さて、君はどこの誰かな?随分派手にやってくれたみたいだけど。」
微笑んでいて口調こそ穏やかだが、その黄色い目は少しも笑ってなかった。値踏みしている目だ。それは荒みきっていた青年の神経を逆撫でる。
ああ。ああ。ああ。どいつもこいつも、どいつもこいつも俺を値踏みする。

それが契機だった。
薄笑っていた男が驚いた顔で目を瞠る。さっきまで立っていた塀は、たった一殴りで瓦礫と化していた。




「…これは化け物だな…。」
ひらっと別の塀へ飛び移ったアルヘオは、思わず苦笑いでそれを見やる。嘘だと言ってくれ。素手の一殴りで塀が粉微塵だ。
すかさず巨大な蔦で防壁を作る。けれど容易く打ち破られてしまった。それならば、と跳びながら手をひらめかせ、細い蔦を無数に喚び出した。さっきよりも敏捷性の優れたそれで、素早く青年を縛り上げる。
ぎしっと軋む音と手応え。捉えた。そうアルヘオが思った瞬間、呼応したようにバイジャが飛びかかった。

「…んだこりゃ。」
青年は無造作に蔦を掴むと、ぶちぶちと引きちぎった。縄より硬度があるはずのそれを。
「…クソ邪魔くせぇ、なァ…!」

数秒もたず自由になった右腕は、かかってきたバイジャを捉え。
咄嗟に槍で防御するも、槍ごと砕いてバイジャを吹っ飛ばした。
目を瞠ったアルヘオがぎっと睨みつけ、わっと蔦を喚び出した。巨大なそれを全てたたきつけたが、動きが粗い。頭に上った血が手元を鈍らせる。
青年は残らず避けながらアルヘオへと間合いを詰めた。そして。
拳で、潰す。
…避けはした。が、かすってしまった左腕は使いものにならないだろう。
「…驚いたな、これは。」
だらりとぶら下がるだけの左腕を、右手で庇いながらよろりと立ち上がる。微笑を作って青年を見返せば、青年の方がよっぽど余裕のない目をしていた。
「凄い力だね。それだけの力を、たかが俺達二人を殺すために使っちゃうのか。俺達は決して敵対関係ではないと思うんだけど?」
「…クソ雑魚がごちゃごちゃ言ってんじゃねぇよ。」
唸るような低い返事だった。よく見ればその手はかたかたと震えている。内から湧きあがるものを抑えきれないかのように。
「どいつもこいつも…どいつもこいつもクソ雑魚の癖に…弱ぇ癖に…俺よりもクソ弱ぇ癖にごちゃごちゃと…ッ!」
ぎっ、と食いしばった歯が唇を噛んでしまったのだろう。口端から一筋血が滴った。その雫が伝い落ちる様を、黄の瞳がすぅっと捉えた。

「…力を持つ君より、遥かに弱くちっぽけであるはずの、」
ゆっくりと、紡がれた言葉が青年に染み込んだ。
「"色違い"が、選ばれた?」

…青年の瞳孔が、一瞬で尖った。
反射的に拳を叩きつける。しかしそれは幾重にも重ねられた蔦の壁で止められた。その奥でアルヘオが薄く笑う。
「…そう。そういうことなんだ。可哀想な、捨て犬君。」
蔦はぎしぎしと悲鳴を上げ今にも千切れそうだ。けれど、今の青年では破れない。狼狽した拳では破れない。
「ひとつ、良い事を教えてあげるよ捨て犬君。確かに俺達は君より弱い。けれど力の矛先を絞れば君を凌ぐ事もできるんだよ。例えば俺のように"守り"に絞ったり…。」
ひゅっと、風の啼く音が背後から。
「彼のように"速さ"に絞ったり、ね。」
青年が音に気づいた時には、右肩の関節が槍で貫通されていた。神経を断たれた右腕はがくりと垂れ落ちる。そのまま地面にねじ伏せられ、首筋に槍の刃が当てられた。
「…わかったかな?捨て犬君。」
なんとか形勢逆転、か。こっそり安堵の息をつきながら、左手で埃を払ってアルヘオは立ち上がった。
それでもまだ油断はできない。青年はそれでも尚猛犬のように暴れる事をやめない。バイジャが馬乗りになって体重をかけているのに、今にも振り払われそうだ。
「…ックソが…クソがクソがクソが、クソが…ッ!!」
がんッと爪を立てたアスファルトがひび割れる。力をこめて引っ掻けば、ばきばきと割れて砕けた。
「ナめやがって…揃いも揃って見下しやがって…クソの癖に…クソの癖に俺をクソだと見下しやがって…ッ!!!」
…力だけじゃない。その獰猛さも、感情の荒々しさも、人間を超えている。
憤怒で真っ黒に染まった視線を叩きつけられて、アルヘオは背筋が冷えるのを感じた。けれど、息を整えて唇を開く。彼に紡ぐべき言葉はもう、見えていた。
「…やっぱりわかっていないみたいだね。君がそうやって有り余る力を全部にばら撒いているから、絞った俺達が勝てたんだよ?」
「ッるせェんだよ…!!」
「怒りも同様だ。怒りは大きな破壊力の素になる。けれど手当たり次第にぶつけていたら、的を絞らない力と同じで、弱いのさ。」

「そう、今の君では弱い。周り全部に怒りをぶつけるままでは、とても弱い。」
黒い瞳をアルヘオは見据えた。その奥までも捉えるように。
「だから怒りも力も、的を絞るべきなんだ。…君が怒りをぶつけるべき相手は、誰?」

「ッ…知るかよ!知らねェよそんなん!!」
激しく吠える、けれど目を逸らした。手応えあり。アルヘオはすぅと目を細める。
「全部だよ!!全部ムカつくに決まってんだろッ!!クソゴミがクソゴミばかり有難がりやがって、こんな世の中全部全部クソッタレだ…!!」
「そう、世界が憎いんだ?憎いよね、価値のないものばかり愛して、価値のある君を愛してくれない。」
「るせぇっつってんだろ!!テメェに何がわかんだよブッ殺すぞ!!」
「殺すべき相手は俺じゃない、でしょう?君は世界を憎んでいる。その憎い世界を作っているのは、一体誰?」
見開いた目。怯えたように瞳孔が揺れる。その揺れに添える一言。
「君があの男を追いかけたのは、どうして?」
…青年が言葉を失った。あれだけ獰猛に睨んでいた目が、心もとなく揺らぐ。
「…ッるせぇよ…。」
何かに、怯えるように震える声。地に目を落として、アルヘオの視線から逃げた。狼狽えた耳は草履の足音にも気付かない。
「うるせぇ、うるせぇうるせぇうるせぇ、五月蠅ぇ…ッ!知るかよそんなの、わかんねぇよそんなの…!!」


がッ、と青年の髪が掴まれる。
そのまま無理に頭を上げさせられ、青年とアルヘオの目が合った。


「―――逃げるなよ、負け犬。」
真っ直ぐに見据える黄の瞳は、視線を逸らす事を許さない。
「目を開け。敵を睨み、敵を喰らえ。目を逸らして雑魚に吠える日々で何か変わった?君が見据えるべきは敵だ。この腐りきった世界を生みだしている敵だ。敵と戦い殺さなければ、この世界は何も変わらない。」
微笑もなく、冷やかな怒りだけがそこにはあった。炎のような怒りしか知らない青年は、その不気味さにぞわりと粟立つ。
「っ…知るかよそんなん…世界を変えるとかそんなんできる訳ねぇだろクソボケ…!」
「できるさ。君はそれができるぐらいの力を持っている。言ったでしょ?ばら撒くのではなく、的を絞る事で力は強くなると。」
掴んでいた手を離した。離しても青年はアルヘオを見上げ続けている。アルヘオは懐を探ると、かちゃりと音を立てて何か取り出した。手の平に乗せて見せたのは、血のように真っ赤な石だ。
「君の力だって同じことだ。君は今よりも強くなれる。その手伝いが俺達ならできる。…そして。」
ふわりと、微笑んで見せた。手は開いたままで。差し伸べるように、開いたままで。

「そうして強くなった君が。他でもない君が。俺達には、必要なんだ。」





猛犬にリード


(導くその手は、引きずり込む手。)

fin.