碧の揺り籠



 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 揺れる地面、きつい潮の香り、厳かな月の光
 ジャドを出発してから二回目の夜。窓辺に座るリースに感じるものはそんなところだ。どうにも眠れなくて、なんとなく廊下へ出たら月が綺麗だったので、空を見上げている。丁度近くに壊れた椅子が放置してあったので拝借した。足の一本や二本はたいした問題じゃない。
 
 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 逃げる様に出港した船だ。乗っている人間は精も根も尽き果てたのか、客室からは物音ひとつしない。ガラスの向こうに広がる大海は不気味なほどに息を潜めている。彼女に聞こえるのは自分の呼吸音と船体がゆっくりときしむ音だけ。

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 この一週間で随分と外国をまわった。ついこの間までローラント以外の土など殆ど踏んだ事がなかったというのに。
(けど)
 小さくため息をつく。
(こんな形ではなく、ゆっくりと見て回りたかったな)
 弟を取り返す、その一心で走り続けていたので周りを見る余裕はなかった。見た事もない景色と、植物、服装、料理、気候、モンスター、そして人種。エキゾチックで芳醇な香りが肺を満たし、今までの小さな世界にとどまっていた自分が恥ずかしくなってしまった。必ずやその経験はローラントの充ち満ちたる未来への確かな一歩へ繋がるであろう。そしてなにより――

 ――姉様、あれは何でしょう? とてもよい匂いがします
 ――エリオット、あまりはしゃぎすぎないで。貴方の一挙一動がそのままローラントの……って聞きなさい!
 ――姉様見てみて! すごい! 見た事もない柄が施されてるよ!
 ――え? まぁ、本当に綺麗……。
 ――ローラントには入ってきてないよね。
 ――そうね……。こんなきれいな布地ならどの国でも喜ばれるわ。
 ――うん、すごく綺麗、きっと、姉様に似合うよ! 姉様!

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

(エリ、オット……)
 リースはぎゅっと肩にかけているブランケットを握る。
 肺から息を絞り出す。
(駄目、冷静に、そんなに思い詰めては、駄目)
 頭を怒りの熱だけで満たしてはいけない。そうやって好転する事柄など、この世には何一つないのだから。
 わかっている。わかってはいるのだが。
 あぁ、何度。
 あの愛しい風が頬を優しくなでる祖国を離れてから、いったい何度、感情に任せ槍を抜いただろうか?
(母様、リースは、未熟者です)
 自分がこれほど弱い人間だったとは知らなかった。力無き者を寄せ付けぬ霊峰の間中にそびえるローラント。そが誇る屈指の軍団アマゾネス、その中で自らの心身を鍛え抜いていたはずではなかったのか。世に生きる殆どの人間には遅れをとるはずがないと、常に二手三手先の最良の選択肢を頭に入れ、そして行動が出来るのだと――奢っていたのではないか?
 瞳に映るのは相も変わらず無表情に広がる黒く蒼い碧。

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 例えば、獣人支配するジャドの牢からリース等を助け出したあのナバールの青年。
(……心は、静かに。あの人も、被害者)
 ナバールについては思う事がつきる事はない。
 赤、紅、朱 赤、朱
 ここに至るまでにどれほど憎く思い、時には口内をかみ切るほどに憤怒したか。この色はおそらく、この先一生において瞳から消える事はないだろうと、今のところはそう思う。
 ナバールに関して今まで知らなかった情報も幾らか得たが、今の問題はあの青年だ。
(彼は――強かった)

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ
 
 戦闘能力に関してではない。実際手合わせをしたら、正式な会場、ルール、獲物、試合であれば彼のとれる行動は霊峰に潜む悪鬼共と変わらない。青年はぐるぐると回りながらリースの死角を狙い、リースは十分なリーチを持ってそれを迎え撃つ。7:3でリースの勝ちだ。それ以外の状況は想像は出来ない。というか、もし想像できればその時点でリースの勝ちだ。

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 さて、ならば何故彼の事を強いと感じたのか。
 目を覚ますとそこは据えた匂いのする暗黒の牢獄。状況把握もままならずリース等がとれた行動は声を上げ、苔むす石壁を叩くだけ。どうしようもない状況を打破しなければならないと分かっていながら、その選択は意味のない事ばかり。
 しかし、そこでとった彼の行動は素早く、正確で、先を見据えた物だった。もし自分が彼と同じ状況に1人で追い込まれた場合、あそこまで冷静に行動できるだろうか? リースにはとてもではないが想像できなかった。
 そして何よりだ。
 話によれば、話が事実であれば、彼は親友を殺され、その罪を着せられ、さらには親友の妹を人質に取られているという。故郷を追われ、心を許した家族はなく、手に持つは血塗られた殺しの道具。敵は自らよりも強大な力を持ち、出来た行動は尻尾を巻いて逃げるのみ。その憤懣をいかなるや。
(でも)

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

(でも、彼は笑っていた)
 その異常な状況においても、彼の表情は大きく変わることなく、その飄々とした微笑は崩れる事なかった。あの商業都市から脱出する最後の希望に間に合わずに、甲板で叫ぶリース達に手を振るその時でさえ。
(あぁ、きっと、彼は強いのだ。常に冷静に、熱を持たずに行動できる人間だ。何が起ころうとも常に最良の選択肢を選び取る事が出来る、そういう人間だ。ナバールに生き、世界の広さを知る人間だ)
 彼は強く、

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ
 
 不憫だ。

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 きっと、彼の本当の顔を知る人間は、もうこの世にいないのだろう。彼が本当の顔を晒せる世界は、もうこの世にはないのだろう。
 その事がただただ不憫だ。
 自分の仇敵である、その可能性がある人間だというのに、そう感じた。
 不謹慎だとは思いつつも少し笑ってしまった。


「おいおい、泣いてたと思ったら、今度は笑い出したぞ……」
『精神が不安定なのね』
「ちょっと、ようすを見てきてくだしゃい!」
「はぁ? 俺なんかよりお前の方が良いだろ」
「なんでちか? そのおとしで涙をながすれでぃーの慰め方ひとつも知らないんでちか?」
「あ、当たり前だろ! そもそもがフォルセナの兵にだなぁ……」
『知らないのね?』
「うっ」
「あぁあぁ、これだから頭の中まで筋肉の人間は……。いっしょう結婚は出来ないでちね」
「な、な……!」
「あぁ、やっぱり意地でもごねて別の部屋にしてもらうんでちた。身の危険を感じるでち。つーか、あんたしゃんは廊下で寝ればいいのに」
「てめぇ……、ガキのお前だけにはそんな事いわれたくねぇな」
「ガキとはなんでちか!?」
『外で寝るのは流石に可愛そうじゃ……』


 自分たちの部屋から話し声が聞こえ、リースは口元に手をあててまた静かに笑った。
 さぁ、思索は終わり、後悔は終わり、今日を終わりにしよう。明日から、またローラント再興の旅が始まるのだ。世界を救うというスケールは未だに実感はわかないが、大丈夫。
(私には苦楽をともにしてくれる仲間が三人もいる。私が世間知らずでも弱くても、仲間の剣と、明るさと、そして慈愛があれば、私は世界になんて飲まれない)
 ナバールの彼にだって、もし生きているならば、再び出会う事になるだろう。その時は槍ではなく、別の物で答えよう。
 今のところは考えつかないが。
「彼の表情を崩す様な選択があればいいのだけど」
 リースはそう口に出すと、ブランケットを羽織り直し、自らの足でしっかりと立ち上がった。

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ

 海原は変わらず静かに横たわり、吸い込まれそうな暗さと包み込む様な安穏さを危ういバランスでもって両立させていた。

 ぎぃ ぎぃ ぎぃ ぎぃ