習作001


 山車は何処にいるのだろうか? 小太鼓大太鼓が起こす空気の振動が確かに此所に届いてはいるのだが、方向が分からない。風に遊ばれる銀杏の葉の声や、近づいては遠ざかるアキアカネの羽音、通りをいくつか越えたところにある小学校のチャイムといった、普段なら聞こえてくる、不親切で上機嫌な音楽が聞こえない。祭りの会場となっている神社からこの公園までは結構な距離があるはずだ。でなければ老人はこんな騒がしい日に外へ出ない。
 ふん、と鼻を鳴らして膝に右手に握っていた杖を座っているベンチの隣へ放る。近所の雑貨屋で買った今年からの相棒は軽い音を鳴らしてベンチの隙間へ引っかかる。老人はこの杖が好きではなかった。杖がなければ出歩く事は勿論、最近では立ち上がる事が出来るかも怪しい。それでも、と老人は思う。
(私は歩こうと思えば歩けるのさ。本当だとも。ただ、その気にならないだけさ)
 その節くれ立った手でベンチの縁をさする。いったいニスが塗られたのは何年前になるのであろうか。荒れた表面から一部がはがれ、まるで針のようになっているのだが、もう随分と堅くなってしまった老人の指には刺さりようがなかった。
 老人はこのベンチをとても気に入っている。県の中央から少し外れた場所にあり、駅からはバスで15分ほどだろうか。人工的に切り貼りされた林と、節水のために土日の昼間にしか水が流れない噴水。そんな公園の奥の奥に一台だけ佇む古ぼけたベンチだ。此所と外をつなぐ道は鬱蒼とした緑にとけ込み、空さえも大部分が木陰となるように木々に囲まれている。日が当たるのは老人の隣だけ。そこだけが木々の間を縫うようにして日が差し込んでいる。まるで秘密の隠れ家だ。きっと管理元である県の職員だってこいつの事を忘れてしまっているに違いない。また鼻を鳴らして――この老人の癖だ――哀れなもんだな、と蔑むように思った。勿論そこには自虐の意味も込められているのだが、老人は努めてそれは考えないようにした。

「すいません、お隣、よろしいでしょうか?」
 気がつくと、斜め前に少し腹の突き出た見知らぬ中年が立っていた。
(すっかり注意散漫だな。昔は誰かが少しでも近づけば癇癪を起こしたものだが、今じゃこの通り。物思いの中にいるのか、現の窓辺にあるものなのか、自分の在り場所がさっぱりわからない)
 黒縁眼鏡の奥には柔和な表情が漂い、その男が普段から仕事でそのような表情を意識しているのだと見て取れた。
 老人はふん、と鼻を鳴らし、視線を前に戻す。その仕草を許可の意でとらえたのか、男はそのベンチの隣へ腰を下ろ――そうとして、老人の杖を手に取った。何度かその杖をさすった後、失礼しますね、と口に出してから老人の脇へ杖をそっと立てかけた。老人は意に介さずじっとしていて、希にあるゆっくりとした瞬きがなければ酔狂な人形であるかのように見えた。男は腰を下ろしてから、背のリュックサックを大儀そうに外した。そして中からタオルを巻いたペットボトルを取りだし、こくっこくっと中身を飲み出した。
「暑いですね」
 そう言って男は水を鞄へしまうと、今度はポケットから出した薄水の生地に紺のボーダーが入ったハンカチで額を拭いた。
「いくら秋とはいえ、やはり日中はきついですね。普段はクーラーの効いた部屋で仕事をしているので、こう、たまに自然の中に出ると」
 老人は、ふむ、確かに暑いな、と今更ながら気づいた。かといって普段に比べてどうかなどは気にした事もなく、いったい今日がどれほど暑いのかは答えられなかった。なので老人は、ふん、と鼻を鳴らした。男はひとつうなずくと、木の葉で日陰になっているベンチの背中へリュックサックを引っかけた。
 しばらく2人の間に静寂が続いた。空には相変わらず祭り囃子の音色が飛び交い、天辺を通過した太陽がゆっくりと大地に引き寄せられていく。老人は中年が此所に来る前とまるで変わらない様子でそこに座っていた。中年もやはりその柔和な表情を崩さないまま隣でぼぅっとしていた。

 祭り囃子の音色が何回か変わったとき、中年は思い出したように口を開いた。
「今日は、お祭りを見に?」
 老人は意外にもそれを聞き逃さなかったようで、
「日課だ」
 と呟いた。老人は縁もゆかりもないこんな祭りなど好きでも嫌いでもなかった。そして、祭りを見たくて出てきたなど、そんな通俗的な人間には思われたくないのだと老人は考えていた。かといって、祭りが嫌だから外に出ないのだという事は、それは自分で自分があまりにも情けなく思えた。
「ただの日課だ」
「はぁ」
 中年はその返事を深くは考えなかったようで、勝手に1人で頷いていた。
「私はですね、娘達にせがまれまして」
 いや、娘が二人いましてね、と男は続ける。
「普段は憎たらしくて私の言う事なんて全く聞かないん娘達なんですがね。それが今日になって急に私と祭りを見に行きたいだなんていいだしまして。お前等だって一緒に回りたい男友達の1人くらいいるだろ、俺と一緒に回る所を同級生に見られたら恥ずかしくないか? なんていってはみたのですが、私と見に行くといって効かなくて。」
 と、男は照れたように頭に手をやった。
「ふん、それじゃあやっぱりアンタの言う事は聞いてないんだな」
 老人は男の方を見ずにそういった。
 中年は老人が初めてしっかりとしゃべった事に少し驚くのと一緒に安心したような表情をした。はい、してやられましたね、頭にやった手でそのままこめかみあたりをとんとん、と押さえた。
「いや、あいつらも妻の古い浴衣なんかを引っ張り出して。いや、でも自分の娘ながら最近の若い娘は何でも似合います。――あぁ娘達は19と15、いや16だったかな? あぁそうだ、16です」
「――若いな」
「えぇ、憎らしい頃まっさかりです」
 早く嫁に出て欲しいですよ。とはにかむ中年にたいして、老人は娘さんじゃない、アンタの事だよ、と思った。蜻蛉が羽音を鳴らして近づいてきたのをゆっくりとした手つきで追いやる。
(若いのさ、アンタには明日を期待する権利がある。美しいとは思うが、それを羨ましいとさえ思わない私とは違うんだな。私にはもうないものさ。そしてそれに気づかないというのが若さだ。人の中に在るものは何だって離れていって在るようになる。間違ってももう一度欲しいとは、思わない)
 ベンチの縁を何度もさすりながら老人は考える。そう、老人はこの場所にいて考えた事など今まで何一つなかった。
「娘さん達は?」
「まだ出店を回っております。いや、恥ずかしながら人混みにちょっと疲れてしまいまして。元気の固まりですね、10代というのは」
「もちろんそうでしょう。子供というのは、そういうものです」
 そしてもちろん、それでしかないのだ。それが実に眩しい。だから老人は祭りには近づきたくなかった。えぇ、えぇ、と男は頷いて、ベンチに座り直した。

「あなたはお一人ですか?」
 老人はふん、と鼻を鳴らした。
「いえいえ、わざわざ1人分空けて座ってらっしゃるので、誰かが隣に座っていたのかなと」
 男は少し周りを見渡してから、また老人の方を見やる。
 老人は、はて、自分はわざわざ端に座っていたのか、と少し驚いた。確かに、特に何も考えもせずに毎日毎日同じ位置に座っている。半年経って、初めてそのことに気づいた。
「昔は妻と一緒に座っていたよ」
 ベンチをさする手の小指に、こつん、と杖が当たった。
「半年ほど前に死んだがね。私より年下だったのだがね。この年なら大往生だ。苦しまずに逝ったので、悲しくもなかった」
 本当のところ、彼女は随分と苦しんで逝った。たぶん一生の内で一番辛かっただろう。隣町に暮らす娘夫婦にも色々と迷惑をかけた。しかし、終わってしまった彼女の人生に誰もいう事はできない。悲しくなかったというのは本当だ。彼女は良い人生を送った。それで良いじゃないか。少なくとも老人はそう思う事にしている。
 温い風が木の葉をならして耳を刺激する。

「そうですか。なるほど」
 意外にも男はその事に対して気後れもしてない様子だった。変わらない笑顔を浮かべてぼぅっと前を見ている。
「それでも、ベンチの端に座ってしまうんですね」
 ふん、と老人は鼻を鳴らした。
「別に、習慣だ。他意はないさ」
 中年は腕を組んで一息唸り、またその後腕を解いた。
「そこは日があたって辛いからな」
「わかります」
 男は額に手を当てて、ちらっと太陽の方を見やった。
「わたしも、同じようにしてしまいます。一昨日の夕飯の時、箸を4膳並べてしまったときは、流石に娘達に泣かれてしまいました」
 ははは、っと男は照れたように笑う。
「男親は駄目ですね、気が利かない」
「あぁ。まったく男は駄目だ」
 老人は相変わらす前を向きベンチの縁をなでる。男はぼぅっと前を見る。祭り囃子は変わらないリズムで空間を振るわせる。太陽だけは刻々とその位置を変え、2人の陰を少しずつ伸ばしていく。

「あれは、あんたの娘さん達じゃないか?」
 老人は外と繋がる道の先に、紺と若草色の浴衣を着た女の子が二人歩いてくるのを見つける。老いた目では、はっきりと映らないが、1人は眉尻を下げて、もう1人は上げている。
(利発そうな良い娘達だ。きっと良い人生を送ってきたのだろう。そしてたぶん、これからも)
「あぁ、いけない、2人ともすっかり怒っている」
 男は慌てて立ち上がった。初めて表情を崩して、困ったように眉尻を下げる。ベンチの背に引っかけてあったリュックサックを急いで取り上げる……と、木のささくれに引っかかってしまったのだろう。軽い老人しか乗せていなかったベンチが揺れて、立てかけてあった杖がころん、とベンチから転げ落ちた。
 あっと腰をかがめようとする男に、老人はすっと手の平を向ける。
「ふん、娘さん達が待っているよ」
 男は二三度瞬きをして老人を見つめた後、すっと頭を下げる。
「すいません。お邪魔しました」
 そういって男は突き出た腹をゆらしながら娘達へ駆け寄っていった。
 老人は背を折り曲げて杖を拾う。ぱっぱとその節くれ立った手で土を払う。道の先では中年が娘達にぺこぺこと頭を下げている。眉尻を上げた女の子が男の背中を何度も叩く。
(外見通りに情けない男だ)
 老人はふん、と鼻を鳴らして杖を抱える。と、眉尻を下げた女の子がこちらに気づいて、すっと頭を下げる。それを見た男も頭を下げた。そして慌ててもう1人の女の子も頭を勢いよく下げる。老人はふふん、と鼻を鳴らして片手で杖を軽く振る。

 ――腹が減った、秋刀魚を買って帰ろう。グリルは使った事がないが、まぁ何とかなるだろう。
 ――そして、ついでに文房具屋によって、封筒と便箋を買おう。

 そんな事を考えて、強く、杖を握った。