『タイトル未定』  痛む体をさすりながら廊下を歩いている時に突然横から強い力で引っ張られ、ジェレミ ア・ゴットバルトは目を見張った。  何が起こったのか、誰に引かれているのかも分からないまま、声をあげる間もなく廊下 の隅、暗がりへと押しやられる。  人気の無い廊下はひやりとした空気に満ちていた。ただでさえ疲労している体が、その 冷気に触れてズクリとうずく。 「う……」  呻き声は言葉にならなかった。両肩をつかまれ、その勢いのまま壁に背中を打ちつけら れて、ジェレミアは息を詰まらせた。反射的に閉じた瞼をゆっくりと開ければ、廊下を照 らす薄明りの下、眼前に立つ人物の顔がぼんやりと見える。 「……キューエル卿」  視界に映るのは、いつもよりさらに眉間のしわを深めたキューエル・ソレイシィだった。 スカイブルーの瞳に静かな怒りをたたえて、じっとジェレミアを見つめている。 「あ……」  何か用か。  その顔は何だ。  なぜこんな所に連れ込んだ。  言葉はいくつも浮かんだが、喉につかえて出てこない。何と言ったものか逡巡して、結 局ジェレミアは何も言わないままただキューエルから目を逸らす。その反応は、相手の不 興を買ったようだった。ちっ、と舌打ちが聞こえたと思ったら、ジェレミアの肩から手が 離れていく。  それは失望されたように、ジェレミアは感じた。  キューエルに見離された。  ゼロを見逃しておきながら、何も覚えていないから。  コーネリア殿下ご着任の前に、汚名返上できなかったから。  粛清することを止めて、対話をしにきたのだろう彼から、目を逸らしてしまったから。  だが。 (……何と言えばいいのだ、いまさら)  彼は自分を殺そうとしたではないか。あんなに睦言を交した仲だというのに。助けてく れるならともかく、命を取ろうとした。それは私に対する愛情が失せたという証拠ではな いのか? だったら自分には、彼を断罪する権利があるのではないか。  そこまで考えて、けれどジェレミアは目を伏せたまま何も言わなかった。何を言っても 自分が惨めになる気がして、そしてそんなことは彼のプライドがけして許さないことだっ た。  キューエルもまた、何も言わなかった。口を閉ざし、何を考えているのかジェレミアを 見つめたまま動かない。  束の間の沈黙のあと、ようやくキューエルがため息交じりに呟いた。 「何を言われた?」 「え?」  聞き取れなかったわけではなく、彼が何を指しているのか理解できずに、ジェレミアは 訊き返した。けれどそれが気に入らなかったのか、キューエルは軽く舌打ちしたあと、言 い直す。 「ギルフォード卿が来ただろう。何を言われた? 何かされたのか」 「あ、……ああ」  腕組みをしたキューエルから威圧的に質問されて、しかしその無作法を叱責するほどの 気力はジェレミアには残されていなかった。ふらり、と頭を揺らして体勢を立て直すと、 視線を左右にさ迷わせてから、正直に答える。 「選択肢は二つだ、と……。一兵士として一からやり直すか、オレンジ畑を耕すか……そ う、言われた」  返事を聞いて、キューエルはしばらくの間、黙したままジェレミアを見据えた。その沈 黙と視線にジェレミアが耐え切れなくなったころ、それを見計らったかのようにふと口を 開く。 「……言えば良かっただだろう」 「何? 何をだ?」  差し出された言葉の意味が理解できずに問い返すジェレミアを忌々しげに睨んで、キュ ーエルは腕組みを解くと、続ける。 「私に、相談すれば良かっただろう! そうすれば、このようなことにはならなかった!  私も、純血派の名誉ために貴様を粛清しようなどとは思わなかった! 全て、貴様のせい だ! 貴様が私に、ジェレミアを抹殺させようとしたのだ! 反省しろ!」 「な……何を言っているのだ、貴卿は! ジェレミアは私だろう! 何が『貴様がジェレ ミアを殺させようとした』だ、意味が分からん!」  矢継ぎ早に言われて、ジェレミアは目を白黒させながらも反論した。実際それは本音だ ったが、キューエルが言わんとしていることも分かる気がした。  何より大切な人を、殺さなければならないほどに思いつめていたのだ、キューエルは。 そしてそうさせたのは彼の何より大切な人である、自分だ。 (そうまで想われていたとはな……普段は『好き』の一言も言わぬから、分からなかった ではないか)  相手を責めるのではなく、あくまでも「気づかなかった自分」を嘲って、ジェレミアは 口元を緩めた。それを見咎めたキューエルが「何だ」と問うのを、首を横に振って「何で もない」と示すと、ジェレミアはキューエルを真っ直ぐ見つめ返す。 「相談も何も、私は何も覚えが無いのだ。相談しようがないではないか。オレンジ≠ネ どという暗号に、まるで記憶がない。賄賂だなんだと言われても、分からないものはしょ うがない」 「また貴様はそのような言い訳を! 見苦しいぞ、ジェレミア!」 「言い訳ではない!」  キューエルの目を見つめてはっきり言い切ると、相手は少したじろいだ。すっと視線を 床に落とし、口を「へ」の字に曲げる。その顔をどこか懐かしく思いながら、ジェレミア は続ける。 「ゼロをみすみす見逃しておきながら『覚えていない』などと言うのが卑怯だということ は、重々承知している。だがしかし、私は潔白だ。その証は戦果によって立てる」  そうして、キューエルから視線を外すと、ジェレミアは遠くを見るように目を細める。 「見ていてくれ、キューエル卿。けして貴卿に恥じぬ男になってみせる。貴卿の愛に応え られるよう、精一杯精進するぞ」 「愛……? 何を言っているのだ、貴様は」 「恥じらうことなど何もない。私たちは、そういう仲ではないか」  ポンポンと肩を叩かれ、満足げに頷かれて、キューエルはポカンと口を開けた。この男 はまた何か勘違いしているのか、と思ったが、訂正する間もなくたたみかけられる。 「かくなる上は、ゼロを討ち取りオレンジの謎を吐かせるしか道は無い。キューエル…… 今一度、力を貸してくれないか」  曇りの無い瞳で真っ直ぐ見つめてくるジェレミアに言い返そうとして、  キューエルは口を引き結んだ。代わりに、ふっと息を吐き出す。  すっと瞼を閉じて、数秒ののちまた開くと、キューエルは眉間にしわを寄せた顔でジェ レミアを見た。そうして、助力を請う彼に応えないまま、そっと顔を近づける。  僅かに目を丸くしたジェレミアの唇に自身のそれを重ねて、一秒、ゆっくりと数えてか ら身を引く。 「……」  突然のキスにジェレミアはぽっかりと口を開けてキューエルを見ていたが、やがて小さ く吹き出すと、困っているような喜んでいるような、複雑な笑みをみせた。 「よし、ではこれから早速ヴィレッタに連絡を取ってゼロ捜索の指揮を執る。ゆこう、キ ューエル卿」  張り切った口調で宣言すると、ジェレミアは右手で拳をつくって、それを軽く上下させ ながら廊下を戻っていく。  こうして顔を合わせるまでは、疑念が心の中で渦を巻いていた。  なぜ自分を殺そうとしたのか。あんなに愛し合ったのは嘘だったのか。愛が冷めたのか。 殺したあとで、自分のいない世界でどう生きていくつもりだったのか。  しかし、言葉を交わして分かった。キューエルは自分のことを愛してくれている。だか らこそ、位を落とされる前に――これ以上醜聞が拡がる前に、自らの手で葬ろうとしたの だ。 (私が辺境伯などではなく真の貴族であるうちに、気高く散らしてくれようとしたわけか ……私の魂が落ちぶれないよう)  後ろをちらとも見ないまま、それでもジェレミアは熱い視線を背中に感じて自分の考え が正しいのだと確信する。 (キューエル、貴卿の愛、しかと受け取った……! 私ならば大丈夫だ、貴卿が側にいて くれるのなら。そして、ヴィレッタがついてきてくれるのなら。三人でまた、純血派を盛 り立てていこうではないか!)  ジェレミアは囚人服をまとったまま、しかし先ほどの取り調べの時とは打って変わって 光を取り戻した表情で前を見据えた。背後から、キューエルが、付いてきてくれていると 信じながら。  廊下を去っていく背中を見つめながら、キューエルは腕組みをした体を壁に預けた。眉 間に寄せたしわがピクピクと動くのは、声にならない激情が胸の辺りを渦巻いているから だ。 (なぜ俺が付いていくと思っているのだ……バカめ)  付いて来いと言われれば、反発したくなる。愛していると言われれば、自分はそうでも ないと言い返したくなる。そうすることで、その時の反応を見ることで、相手が自分に対 してどういった感情を抱いているのかある程度は分かる。  ジェレミアはきっと、悲しげな顔をするのだろう。これまでがそうだったように。そし てそれは、自分に対する彼の愛情と執着を示しているのだ。  ジェレミアが今頃自分の不在に気づいて泣きそうな顔になっているだろうことを想像し て、キューエルは口元を歪めて笑った。すると、不意の声が闖入(ちんにゅう)してくる。 「まるで子どもじゃないか」 「ギルフォードか」  声の主に思い当たって、キューエルは相手に悟られないよう内心で舌打ちをした。  廊下を、向こうから歩いてきたのはギルバート・G・P・ギルフォードだった。顔にかけ た眼鏡が、廊下の薄明りにきらりと光る。  ギルフォードは眼鏡を片手で押し上げると、口元に不穏な笑みを浮かべる。 「この私を呼び捨てにするとはな。いい度胸だ」 「フン。ならば様&tけででも呼べば良かったか? 貴様がコーネリア殿下を呼ぶとき のように。姫様≠ニ」 「それはいい。是非そうしてくれ。だが私は男だからな……できれば王子様≠ェいい」  嫌味を含んだ物言いにも動じずにさらりと返してくるギルフォードを、キューエルは半 眼になって見返した。しかしギルフォードはキューエルのことなど意に介さずに、コツコ ツと足音をたてて近づいてくると、断りもなくその隣に身を置く。  反射的に壁から背を離してきびすを返したキューエルを目で追って、ギルフォードは口 を開く。 「殺そうとしたらしいじゃないか、ジェレミア卿を。いったい、なぜだ? 私を捨ててま で選んだ男ではないのか。それとも、例のオレンジの一件で、冷めたか」 「殺そうとしたわけではない。あれはあくまでも粛清≠セ」  ジェレミアが死ぬという結果だけを見ればどちらも同じことではあるが、キューエルは あえて否定した。自分が言うのはいいが、他の人間に「殺すつもりだったのだろう」と言 われると、無性に腹が立つ。  ギルフォードはキューエルの答えを聞くと、馬鹿にしたように鼻で笑った。 「同じことではないか」  キューエル自身も分かっていることを言い、ギルフォードはツカツカと歩むとキューエ ルの正面に回り込む。  そうかと思うと、次の瞬間にはギルフォードの両手がキューエルの顔の脇をかすめた。 ダンッ、と、音高くギルフォードが壁に手をつく。その腕に顔を挟まれる形でギルフォー ドと向き合って、キューエル嫌な気落ちを隠そうともせずに眉間のしわを深めた。 「つれないな。あれだけ枕を交わした仲だというのに」 「それは貴様がしつこいから、仕方なく付き合ってやっただけだ。勘違いするな」 「なら、オレンジには本気だと? 笑わせる。貴卿は人を本気で愛せるような人間ではな かろう。体だけ、その関係を心地よいと思える性質(たち)だ。だからこそ、私たちも上 手くいっていた」  言いながら顔を近づけてくるギルフォードを力いっぱい押しやって、キューエルは彼に 背中を向けると特に乱れているわけでもないのに襟元を正した。そうすることで、相手に 「自分はお前の行為で不快感を覚えている」のだと知らしめているのだ。 「私を貴様と一緒にするな」 「待て。まだ答えていないぞ。なぜオレンジを殺そうとした?」  吐き捨てて去ろうとする背中に、ギルフォードが声をかける。キューエルは渋面を振り 向けてから、 「……貴様に話す理由はない」  と、にべもなく一蹴する。だがギルフォードは焦ることなく、それどころか不敵な笑み を浮かべた。 「成程。つまりは自由に想像していいということだな。愛想を尽かした、とか、本当は愛 してなどいない、とか」  キューエルは一瞬だけ殺気をまとった。けれどすぐに平静さを取り戻すと、ゆっくりと ギルフォードに向き直る。 「怒っているのだ、私は。オレンジなどという不名誉な称号を得る前に私に相談しなかっ たジェレミアに……、いや、それ以上に、私に剣を向けたあの男に」  枢木元一等兵護送に際してゼロが現れた時、見逃すと言ったジェレミアに反してゼロの 援軍を攻撃したら、剣を向けられ「私の命令に従えないのか」と言われた。それが、腹立 たしい。腹立たしいのに、さらにそれを「覚えていない」という。 「正直に訳を話せば理解してやろうというものを、あの男は言い訳ばかり……本当に腹が 立つ。私を愛しているというなら、なぜ本音を言わない? 愛情を疑うのは私の方だ。本 心を確かめられないのならばいっそのこと、この手で始末してしまおう……そう思っただ けだ」 「子どもだな」  目を閉じ鼻で笑うと、ギルフォードは再び瞼を開けてキューエルを見据える。 「キスしたのも、それが理由か? 本心を確かめられないのなら、せめて相手が拒むか否 かで自分に対する気持ちを探ろう、と? 拒まれなければ『愛されている』という証にな る。良かったじゃないか、拒まれなくて」  ギルフォードの嫌味な物言いに、キューエルは「いつから覗いていたのだ」と吐き捨て てから、ひらひらと右手を左右に振った。 「キスをしたのは、あいつが『そうしてほしい』と望んでいたからだ。それ以外に理由は 無い」  その言葉を最後に、キューエルは今度こそ振り向かずに廊下の向こうへと去っていく。 だがキューエルは聞いていた。背後でギルフォードが眼鏡を押し上げながら、 「与えることが愛だと思うなどと……子どもだな」  と、呟くのを。                                        終。